阿南は本当に「稲作発祥の地」なのか?(2)
2021年8月4日 08時39分 阿南が稲作発祥地なのかを調べるためには様々な文献にあたる必要があります。こんな時に力になってくれるのが図書館司書の先生です。本校の知久先生に全県的に文献の収集をおこなっていただいたら、こんなにも資料が集まりました(写真)。これを全部読み込むのは不可能ですが、知久先生が大事なポイントに付箋をしてくれたのでとても助かっています。
ところで、「阿南」という地名ですが、実は、校章が作られた昭和25年当時は阿南町は存在しておらず、いくつもの村(大下條村、富草村、和合村など)に分かれていました。したがって当時の「阿南」とは阿南町のことではなく、下伊那南部地域全体を指していることが分かったのです。
稲作の発祥というと弥生時代です。下伊那南部地域で弥生時代の初期の遺跡から稲作の跡が発見されれば直接の証拠となります。文献を検討してみると、稲作の直接証拠は「水田の跡」「木製農具」「もみ」「もみの跡(圧痕)」が見つかることですが、この地域では飯田市の石行遺跡で「イネのもみの圧痕」が見つかったぐらいで、時代を比較することができません。そこで、弥生時代初期の「土器」が出土する下伊那南部の遺跡を探してみることにしました。
すると、天龍村平岡に「満島南遺跡」という縄文時代後期~弥生時代中期に栄えたと思われる遺跡の存在を知りました。・・・つづく